簡単なあらすじ
1) 父親の工場が倒産し、夜逃げした経験のある山崎瑛と、大企業である海運会社・東海郵船の御曹司である階堂彬。対照的な2人は、ともに東京大学へと進学し、そして産業中央銀行へと入行する。
2) 銀行マンとして活躍していた2人だったが、彬は父親・一磨が病に倒れ、さらには弟も経営の重圧に耐えきれずに、望んではいなかったが、東海郵船の社長に就任する。東海郵船は、順調とは言えず、さらには叔父である階堂晋・崇が父・一磨の反対を押し切って始めた高級リゾート施設・ロイヤルマリン下田の赤字でピンチを迎えていた。
3) 彬は、産業中央銀行の担当者である瑛とともに、東海郵船の経営改善に乗り出す。ロイヤルマリン下田を売却しようと試みるが、赤字や巨額の借入金のある施設は売れなかった。そこで彬は、売却ではなく、黒字化を目指すのだった。
4) 彬は、弟を騙して連帯保証を行わせた叔父たちを許す。その上で説得し、東海郵船のグループ会社で、叔父たちが社長を勤める東海商会、東海観光を手放させる。瑛は、入念に準備した稟議書で銀行側を説得する。晴れて融資は行われ、ロイヤルマリン下田は黒字化、東海郵船の経営は持ち直すのだった。
ここがポイント
対照的な2人が銀行員となり、そして一方は社長、一方はその会社を担当する銀行員としてそれぞれの道を歩みだす。だが、その道は再び交差し、企業の存亡をかけて知恵を出し合ってともに共闘するというストーリー。
子供のころの経験・原風景などが、その後の人生に大きく関わっていくのだと気付かされる。
幼少期
山崎瑛
山崎瑛は、父親の経営する町工場の倒産で祖父の家に身を寄せることになった。借金取りに追われる中、父・孝造は自己破産を行い、就職をすることとなった。
瑛は、転校することになって、当初は同級生の三原比呂志(あだ名:ガシャポン)に家のことでからかわれるも、瑛と取っ組みあいのケンカを行って、以後、親友になる。
瑛が中学に進学すると、北村亜衣が転校してきた。彼女の父親は、中堅スーパ「デイリーキッチン」の支店長であり、支店を出店するために引っ越してきたのだった。
商店を営む家の子供も学校には多く、家業の存続を危ぶむ子供たちは、亜衣に対して風当たりが強かった。だが、彼女はめげずに父親の仕事に誇りを感じていた。心配した瑛は、彼女を野球部のマネージャーにしようと、亜衣の家まで訪れる。だが、亜衣は「ここで引き下がったらダメなの」と、テニス部を辞めようとはしなかった。
一方、瑛は、亜衣の父親に話を聞く。そこで父親は、「スーパーにはできない、商店には商店の戦い方がある。それを考えずに、スーパーを敵視するのは違うのではないか」といったことを指摘する。
瑛は、父親の工場倒産、そして亜衣の父親に話を聞いたことで、次第に経済の面白さに気づき始めていくのだった。
階堂彬
デイリーキッチンは、ケーズ食品が買収を行う。海運会社・東海郵船がケーズ食品の親会社であり、東海郵船の階堂一磨が買収の話をまとめたのだった。
階堂一磨の息子・階堂彬は、優秀な経営者である一磨の仕事を幼い頃から見て育っていた。そんな彼は、経営者ではなく、別の道を歩むことを目指していた。一方、一磨には弟の晋、崇がいた。彼らは東海商会、東海観光の社長であったが、それらの会社は東海郵船に比べて、業績は思わしくなかった。
ケーズ食品は、もともとは晋が経営していたが、業績不良で一磨がてこ入れを行うことになったのだった。そこで、デイリーキッチンを買収し、ノウハウを提供してもらうこととなったのだった。一磨は、晋と親しい間柄で、ケーズ食品の企画担当役員であった友原良昭を解雇する。
友原は、ケーズ食品の出店する仙台支店に対抗し、同じ地区に自らの店を出す。一磨に対抗心を燃やす晋は、友原の店に出資を行う。低コストで価格を抑えたケーズ食品のスーパー、そして高級路線の友原のスーパーという対照的な店での勝負は、ケーズ食品のスーパーが勝利して終わった。兄・一磨に、晋はまたしても敗北を喫するのだった。
東海郵船の経営に行き詰まりを感じる一磨は、フェリーを新造して立て直しを図ろうとしていた。だが、そんな彼に産業中央銀行の安藤章二は、真っ向からその意見に反対する。そして、海外との航路開拓により、貨物船の事業を増やすべきである、と提案するのだった。
会社の経営者に対して、経営方針について意見を戦わせ、ついには父親を説得する銀行員の力に、彬は驚かされるのだった。
大学時代
山崎瑛と階堂彬は東京大学に進学した。
ゼミは異なるが、それぞれ上山雅治教授の授業を受けていた。上山教授に、産業中央銀行の人事部・立花耕太は、優秀な生徒を推薦してもらおうとした。だが、上山教授は誰が優秀かについては、教えようとしなかった。
東海郵船の経営に行き詰まりを感じる一磨は、フェリーを新造して立て直しを図ろうとしていた。だが、そんな彼に産業中央銀行の安藤章二は、真っ向からその意見に反対する。そして、海外との航路開拓により、貨物船の事業を増やすべきである、と提案するのだった。
会社の経営者に対して、経営方針について意見を戦わせ、ついには父親を説得する銀行員の力に、彬は驚かされるのだった。そこで、立花に産業中央銀行への入行を勧められた彬は、その提案を受け入れるのだった。
立花は、彬を獲得できたことを上山教授に感謝してお礼を言う。だが、上山教授の言っていた「優秀な学生」というのは、彬ではなかった。上山教授が優秀と認めたのは、山崎瑛の方だったのだ。立花は、瑛に急いで連絡をとるのだった。
産業中央銀行への入行
山崎瑛と階堂彬は、産業中央銀行に入行する。
新入社員に行われる「融資一刀両断」という研修で、瑛と彬のチームはそれぞれ勝ち残っていた。
研修の最後で、瑛は銀行側で融資の可否を決定し、彬は企業側でどれくらいの融資が妥当かを決め、財務データとともに提出することになっていた。彬はそこで、粉飾決算を行い、銀行に融資をさせようとする。
羽根田一雄融資部長は、その財務データの完成度の高さ、そして平然と粉飾決算を行うことに驚かされる。だが、瑛は残っていた現金の多さで粉飾を見抜き、融資見送りを決定する。この瑛と彬のやりとりは話題となるのだった。
研修後、瑛と彬はそれぞれの部署で、銀行員として活躍する。理不尽な上司や、融資したくてもできない現実など、彼らは多くの壁にぶつかるのだった。
階堂彬の退職・社長就任
階堂一磨は、病に倒れる。末期癌と判明した一磨は、東海郵船の社長を退任することとなった。後任となるのは小西文郎だった。
階堂晋と崇は、高級リゾート施設・ロイヤルマリン下田の事業を開始したのだが、経営は思わしくなかった。そこで、東海郵船に借り入れ金の担保をさせるため、彬の弟・龍馬を社長に担ぎ出すのだった。
小西は、取締役社長を解任され、龍馬が社長となった。そこで、リゾート施設の借り入れ金の担保を引き受けてしまうのだった。その後、龍馬は困難な舵取りや重圧に押しつぶされ、結果、精神を病んでしまう。
彬は、望んではいなかったが、小西の説得や父の遺志により、ついに東海郵船の社長へと就任する。社長就任当日、ロイヤルマリン下田に融資しなかったとのことで、晋と崇がメーンバンクを産業中央銀行から三友銀行に変えたことを、まず彬は産業中央銀行を訪れて謝罪する。
対応したのは瑛だった。瑛が東海郵船への融資を担当することとなったのだった。彬はまず、東海郵船の足かせとなっていたロイヤルマリン下田を売却しようと試みる。バブルは弾け、ますます経営はひっ迫していた。
一方、瑛はゴールドベルクという企業売買を手掛ける会社から連絡を受ける。そこの代表は、小中学校の同級生である三原比呂志だった。三原が代理人となって、売却に乗り気である買い手と交渉していたのだが、三友銀行からの情報漏洩により、破談となってしまう。
彬は、東海郵船の昔からの取引先から、契約を打ち切りたいと言われてしまう。以前からクレームなどがあったにも関わらず、放置していたことが原因であった。殿様商売であぐらをかいていたツケであると気付いた彬は、そのような対応を改めさせる。その一環として、秋本本部長を更迭し、亜衣の父親を就任させるのだった。
瑛は、東海商会とセットでロイヤルマリン下田を売却することはできないか、と思いつく。その案を受け、彬は叔父・晋を説得する。晋は、兄・一磨に対抗心を燃やすことによって、さまざまな事業に失敗してきたことに気づく。そこで、ついに己の経営者としての技量のなさに気づき、彬の提案を受けることにしたのだった。
三原は、東海商会の売り先を、大日麦酒にしてはどうかと提案する。ファイバー系の新素材を開発したことから、買収する見込みがあると考えたのだった。だが、大日麦酒は、「ホテル経営のノウハウがない」ことから、ロイヤルマリン下田を切り離して欲しいという。
彬は、ロイヤルマリン下田の売却をあきらめ、東海商会を売却して借入金を圧縮したうえで、三原と協力して黒字化を目指すことにしたのだった。そこで彬は、産業中央銀行へ金利引き下げや、リストラ改革を実行するための資金借り入れを申し入れる。
瑛は、三友銀行からのロイヤルマリン下田に対する借入金140億円を解消するため、「東海郵船」へ140億円融資すると銀行側へ提案する。その上で、東海商会、東海観光の全株を東海郵船へと譲渡させるのだった。晋と崇は、ついに降伏して社長を辞任することにしたのだった。
また、東海商会は大日麦酒へと売却される。そして、その東海商会の海運をすべて東海郵船に独占させることを条件したのだった。瑛の稟議は、通ることとなったのだった。
経営改革は実行され、ロイヤルマリン下田は三友銀行への融資を返済した2年後に黒字化したのだった。
瑛は、結婚した亜衣、そして子供たちとともに、父親の経営していた工場の跡地を訪れる。そこで「ここがぼくの原風景だ」とつぶやくのだった。