1945年8月15日、朝日新聞報道部の記者である神住匡は、屋上で玉音放送を聞いていた。日本が終戦を迎えたその翌日、「全国中等学校優勝野球大会」運営において重要な役割を果たしていた佐伯達夫が現れ、戦争により5年間開催されなかったその大会を復活させたい、と熱弁するのだった。
だが、終戦まもなくで、なおかつ「全国中等学校優勝野球大会」は中止されていたため、ボールやバットなどの用具、グラウンドも畑となったり空襲で焼けたり、さらには指導者も不在となっていた。
こうした中であったが、元甲子園球児であった神住は、妻・美子の後押しもあり、「全国中等学校優勝野球大会」再開を実現させるべく動くのだった。
ところが、問題は山積していた。指導者も不在であったため、神住本人が各地へと出向き、講習会を開いた。さらには、甲子園球場、西宮球場もアメリカGHQに接収されてしまう。そのため、神住は米軍のもとへと出向き、大会のため「使用許可」を得ようと奔走するのだった。
神住はアメリカの高校野球で活躍した日系人の存在をスミス大佐、エヴァンス中佐から聞く。「ジョー」と呼ばれるのその投手を探し出し、「全国中等学校優勝野球大会」再開実現のために記事にできないかと神住は考え始める。
そんな中、神住は運動具店にボールが入荷するという話を教師の多々良から聞く。だが、全国を飛び回っていたため、自分は出向くことができず、妻・美子に購入を依頼するのだった。美子は朝一でその店に行くのだが、そこにいたのは多々良だった。
美子は、神住が多々良の長男についての記事を書いていたのを知っていた。多々良の長男が、次男を助けようとして、自らの命を犠牲にしたこと、長男は野球が好きであり、次男はその遺志を継いで野球部に入部したことなどが美談として書かれていたのだった。
そんな多々良であったが、用意していたナイフで美子に斬りかかる。「ボールが入荷した」と神住に情報提供をしたのは、多々良だった。多々良は神住本人をおびき出し、ナイフで刺そうとしていたのだった。ところが、そこに現れたのが妻・美子であったため、彼は美子を刺したのだった。
幸いにして、美子は軽傷で済み、多々良は逮捕された。多々良は、戦中に野球排斥を行っていた。そんな本人の息子が野球をしており、さらにはそれが美談として書かれてしまった。多々良にとって、神住の記事は迷惑でしかなかったのだった。
神住は美子に謝罪し、「全国中等学校優勝野球大会」再開の旗振り役を下りようとする。だが、美子に再び後押しされ、再開実現を目指す。
そんな中、帰化兵のヤナギ上等兵の情報により、「ジョー」の名字は安斎であると判明する。そこで神住は、カメラマンとして取材に同行していた「安斎丈二」の正体がジョーであると分かるのだった。
神住は、野球を通じて親しくなったエヴァンス中佐に、「米軍兵との日米交流試合をしないか?」と誘われる。エヴァンス中佐は、野球好きなESS局長ウィリアム・マーカットにその試合を見せ、ベースボールではなく日本の「野球」の存在意義を示そうとしていたのだった。
神住は元甲子園球児などに声をかけ、即席のチームを結成する。その中には、安斎もメンバーとしていた。試合開始時は大差をつけられていたものの、安斎の登板による好投で僅差まで追いつく。最後には敗北したのだが、マーカットは日本の「野球」を認めるのだった。
マーカットの口添えにより、終戦翌年の8月15日、西宮球場で「全国中等学校優勝野球大会」が再び開催されることとなった。その球場上空には米軍機が飛び、白い飛行機雲が青い空に描かれ、まるでゴールテープが切られるかのようなその光景を神住は眺めるのだった。