ファルーク・バルサラは、インド生まれの両親のもとに育ち、イングランドのミドルセックス州フェルサムに移り住んだ。両親は厳格なゾロアスター教の信者であり、「善き思い、善き言葉、善き行い」を守るように教えていたが、ファルークはバンド活動を行い、空港の荷物運びをする傍ら、夜遊びする日々を暮らしていた。
ファルークは「フレディ」と自らを名乗り、ある日、ギタリストのブライアン・メイ、ドラマーのロジャー・テイラーが所属するバンド「スマイル」に加入する。そんな中、フレディは、メアリー・オースティンに一目惚れし、交際を始める。メアリーは、フレディがユニセックスな服を着ることにも理解を示していた。
「クイーン」とバンド名を変えたフレディらは、使用していた車を売って、アルバム作成を行う。その様子を見ていたレコード会社が、彼らに声をかけるのだった。バンド活動が軌道に乗りつつある中、フレディはメアリーにプロポーズして結婚する。フレディはメアリーに婚約指輪を「絶対に外すな」と言うのだった。
クイーンはアメリカでのツアーを行い、成功を収める。だが、『ボヘミアン・ラプソディ』をシングルとしてリリースすることに反対され、フレディらはEMIの重役レイ・フォスターのもとを離れるのだった。
その後も精力的にアルバムリリースとツアーを続ける中、フレディは自らのセクシャリティについて苦悩しはじめる。ゲイであるマネージャーのポール・プレンターとの関係をきっかけとして、フレディは男性とも関係を重ねるようになる。
フレディは秘密を抱え、ついにはメアリーに「僕はバイセクシャルなんだ」と打ち明けるが、メアリーは「あなたはゲイよ」と言われる。その後、2人の関係は夫婦関係とは異なるものとなり、ついには別居生活を始める。だが、フレディは変わらずメアリーに愛情を感じ続けていた。メアリーは、フレディの他に恋人を作り、フレディにも会わせる。
ポールは、CBSレコードのオファーにより、フレディにソロデビューを勧める。アルバム発表の記者会見で、フレディは次々にセクシャリティについての質問を浴びる。その流れもあり、フレディはそのソロデビューのオファーを受け、これによりクイーンの他のバンドメンバーとの間に亀裂が生じる。
一方、フレディはエイズに罹患しており、精力的にソロアルバムを作成する中、体調不良を自覚し始めていた。ポールは、フレディにソロアルバム作成に打ち込ませ、メアリーからの電話や一大チャリティーライブの「ライブエイド」のオファーもフレディの耳に入れない。
メアリーは、「悪夢を見た」とフレディに会いに行く。フレディは、メアリーとの再会に喜ぶのだが、ポールは早々にメアリーを追い返そうとする。そこでメアリーは、自身が恋人との間に子供ができたこと、そしてライブエイドのオファーがあると伝える。そして、「あなたにとって、私やクイーンは家族よ。家族のもとに返って。ポールはあなたのことを考えてなどいない」と伝える。
フレディは、ポールとの関係に終止符を打つ。ポールは「写真もある、君の秘密を暴露するぞ」と脅すのだが、フレディはその脅迫に屈することなく、ポールをマネージャーから解雇する。
フレディは、クイーンのメンバーに謝罪し、ライブエイドへの参加を呼びかける。メンバーはフレディを許し、再びクイーンの活動が再開するのだった。
ライブエイドが近づく中、フレディは病院を訪れ、そこでエイズと診断され、治療を開始することとなる。そして、ついにはクイーンのメンバーにもカミングアウトするのだった。
フレディは、忘れがたい男性ジム・ハットンのもとを訪れる。ジムは、自宅のパーティーで給仕を務めており、そんな彼にフレディは一目惚れしたのだった。フレディは、ジムの名前だけは聞いており、電話帳で探し続け、ついに見つけ出す。そして、ライブエイド当日、ジムに「お茶でもどう?」と誘い、彼を実家の両親に紹介する。
フレディは、父の「善き思い、善き言葉、善き行い」の下、ライブエイドに参加し、チャリティー活動を行うことを伝え、ついに父子のわだかまりは消えることになるのだった。
1985年、世界中の人々、家族、メアリーたちが見守る中、クイーンはライブエイドで熱唱する。フレディは、10万人もの観衆、そして中継を見守る世界中の人々は熱狂させるのだった。
ライブエイドの後、フレディは1991年11月24日、肺炎により45歳の人生に幕を下ろす。ジムとの恋人関係は亡くなるまで続き、メアリーとの友人関係も続いていたのだという。
フレディの死後、クイーンのアルバムが世界中でチャートインし、イギリスでは『ボヘミアン・ラプソディ』が2度目の1位を獲得する。エイズ基金が設立され、遺言により初登場1位を獲得した作品の収益は基金へと寄付されることとなった。